東京地方裁判所 昭和57年(ワ)14607号 判決 1988年9月26日
主文
一 被告は、原告ら各自に対し、それぞれ金二九三〇万二三二五円及び内金二六三〇万二三二五円に対する昭和五七年三月二四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを五分し、その四を被告の負担、その余を原告らの負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告ら各自に対し、それぞれ金三七〇八万九九一九円及び内金三三〇八万九一九九円に対する昭和五七年三月二四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告らの請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1(当事者)
(一) 原告泉敬(以下「原告敬」という。)は訴外亡泉聡(以下「聡」という。)の父であり、原告泉緑(以下「原告緑」という。)は聡の母である。
(二) 被告は、東京都日野市において、木下外科医院(以下「被告医院」という。)の名称で、医業を営む医師である。
2(交通事故の発生)
聡は、昭和五七年三月当時、中央大学法学部法律学科二年に在学する学生であったが、同月一九日午後八時ころ、原動機付自転車を運転して大学から下宿へ帰宅する途中、日野市三沢七一三番地先路上において、駐車中の大型トレーラーに追突し、左後頭部割創、脳震盪症、左前額部挫創、両肩胛部及び背部打撲、肺挫傷、左第五、六、七肋骨(背部)骨折、右手首関節骨折、左下腿挫創並びに足脛骨腓骨複雑骨折(左両下腿骨開放骨折)等の多重外傷を負った。
3(診療契約の成立)
聡は、事故現場から救急車で被告医院に運び込まれ、緊急入院したが、事故直後は脳震盪により意識がなかったものの、被告医院に運び込まれたころには意識は回復し、その際、聡と被告との間で、被告において聡が前記交通事故によって負った傷害を治療するとの診療契約が成立した。
4(被告医院における診療の経過)
(一) 入院直後、被告は、頭部及び足のレントゲン写真の撮影、頭部創傷の縫合、額の擦過傷の治療並びに足の骨折部分を固定する応急措置を行い、右各診療は三月一九日午後一〇時三〇分ころ一応終了し、聡は病室へ移された。
(二) その後も聡は左肩や胸部背側の痛みをしきりに訴えていたが、被告は当初、「交通事故なのだから痛いのは当たり前だ。」と取り合おうとしなかった。
(三) 同日午後三時過ぎころから同四時ころまでの間、被告は、下腿外脚部の筋肉収縮を防止し骨折部分の接合を容易にするため、足背部に穴を開けて金具を取り付けこれを伸長できるようにする手術(キルシュナー綱線挿入術)を行い、また、右手首が骨折していたので、添え木を当てて固定する処置をした。その後被告は病室において、聡に取り付けた右金具にひもを付け三キログラムのおもりをつるし(持続綱線牽引術)、また、ゴム製の幅約二五センチメートルの包帯(弾性帯)二本で、聡の胸部を四重に巻き、包帯止めで止めた。
(四) なお、原告敬は同日午後三時四五分ころ、原告緑は同日午後五時三〇分ころ、それぞれ被告医院に到着し、以後聡が死亡するまで同人に付き添った。
(五) 同日夜から翌二一日朝にかけて、聡の容態は悪化し、著しい呼吸困難の症状を呈したため、二一日午前九時一五分ころ、原告緑が被告の診察を求めたが、被告は、「苦しいのは当然だ。」などと言って取り合わず、同日午前一〇時一〇分過ぎころようやく病室に来て、原告敬の「呼吸が苦しいようだが包帯をとってやれないか。」との発言に、胸に巻いたゴム製の包帯を外した。
(六) その後被告は、以下に述べる聡の転院まで、聡の容態を一度も診察しなかった。
5(小武海医師の被告医院への到着と転院の経緯)
(一) 三月二一日午後一時三〇分ころ、聡の兄泉修(以下「修」という。)の友人の父である訴外小武海成一医師(以下「小武海医師」という。)が聡の容態を心配して被告医院を訪れた。
その時点における聡の容態は、意識が全くなく、絶えず失禁し、白眼が見える状態であり、また、チアノーゼが出現していた。小武海医師は、直ちに聡の脈拍、呼吸数を計ったところ、脈拍は一分間に一六〇ないし一七〇、呼吸数は一分間に四〇前後と、いずれも正常時の約二倍であった。さらに聡は苦しそうに「ハーハー」とうなり声を出しており、呼吸困難に陥っていたので、小武海医師は聡の胸部の打診を行い、その結果肺に異常があると判断した。
(二) しかるに被告は前記4(五)の診察を行った後は、原告らが聡の右症状を説明したうえ診療を頼んでも、全く取り合わず、聡の生命が危険な状態であること及び肺に重篤な症状が見られることを全く認識しておらず、酸素吸入を初めとする肺の症状に対する治療措置は全く取られていない状態であった。そのため小武海医師に転院の必要性を感じ、その旨を原告らに告げたので、原告らもまた、聡を他の人的・物的設備の整った医療機関に転院させようと考えた。
(三) そこで原告緑と小武海医師が被告のもとに赴き、被告に対し聡の総合病院等への転院の斡旋を依頼したところ、被告は当初、「ここでも十分治る。転院の必要はない」等とこれを拒絶し、小武海医師の説得により結局は転院を認めたものの、今度は「移すなら今すぐ金を払ってさっさと出て行って下さい。私はもう診ませんから。」と言って、以後の診療をしない旨及び転院に一切協力しない旨を宣言した。そして被告は、転院先の病院の紹介はもとより、原告らが右(一)のチアノーゼ等の症状を説明したうえ依頼した救急車の要請も拒絶した。
(四) 結局聡は小武海医師の尽力により国家公務員共済組合連合会立川病院(以下「立川病院」という。)に転院することとなり、同日午後三時ころ、原告ら、修、小武海医師及び救急隊員の手により救急車に運び込まれ、同日午後三時二〇分ころ、立川病院に到着した。
6(立川病院における診療経過と臨床経過)
(一) 原告ら及び小武海医師は、救急車に同乗し、点滴を継続する一方、救急車内で直ちに酸素吸入が開始された。
(二) 立川病院では、転院当初酸素吸入等の措置と諸検査が行われ、胸部レントゲン撮影の結果、肺野がほとんど全部にわたって白くなっていることが認められ、肺挫傷と診断された。また、呼吸状態及び血圧が急速に悪化したので、肺への挿管をして陽圧呼吸が行われた。更に同病院の担当医らは、器械による換気治療を行うことが救命のための最善策であると判断し、同日午後六時ころ、その手術を行った。
(三) 翌二二日午前三時過ぎころ、聡の心臓は一時停止し、心臓マッサージにより一旦は危機を脱したものの、翌二三日も体温は(依然)四〇度程度あり、血圧も上昇しなかった。翌二四日午前一一時ころ、心臓に変調があり、体温は四二度を超え、血圧も計測できない位に低下した。同日午後一時ころ、心臓停止となり、再び心臓マッサージが行われたが回復せず、同日午後一時七分、聡は死亡した。
7(肺挫傷の病理)
肺挫傷は、胸膜損傷を伴わない肺間質の損傷で、胸部の強い圧迫あるいは打撲に際して発生することが多く、胸部外傷中一〇ないし一五パーセントを占めている。
自覚症状としては、胸部の圧迫感、胸痛、呼吸困難、及び発熱等がある。また、他覚所見としては、胸壁挫傷によって胸郭運動が制限され、呼吸は浅くて速く、ときとして腹式呼吸のみられることがあり、損傷肺野の呼吸音減弱、喘鳴あるいは捻髪音などが現れる。さらに、肺挫傷が著明な場合には、血圧低下あるいはチアノーゼなどの循環系所見の見られることがある。そしてこれらの症状は、受傷直後から進行性をもっており、レントゲン所見としては、受傷肺野には局限性、散在性あるいは融合性の線状ないしは斑状陰影が認められる。
治療としては、酸素療法、胸痛によって胸郭運動が制限されるものには受傷側胸壁において肋間神経ブロックを行い換気運動を円滑にする方法、器械による換気治療等があり、同時に気道内分泌物がみられる場合にはこれを吸引するものとされている。
8(被告の過失ないし債務不履行―責任原因)
(一) 昭和五七年三月一九日の入院直後から翌二〇日午後二時ころまでの間
(1) 聡の交通事故の態様、これにより受けた傷害の部位及び程度は前記2記載のとおりであり、聡が入院直後から継続して胸部圧迫痛、腰痛を訴えていたことは前記4記載のとおりである。右事実から、被告としては、聡の入院の時点において、肺部実質臓器の損傷を疑うべきであった。
(2) そして、入院直後から継続して、胸部打聴診、体温、脈拍、呼吸数、血圧、意識障害の有無及び程度等のバイタルサインのチェック、愁訴、その他外観的容態のチェックをすべきであった。
(3) 右(2)と並行して、肺部の観察を目的としたレントゲン写真の撮影を継続的に(少なくとも六時間毎に)行い、かつ、必要により動脈血のガス分析を行うべきであった。
(4) 被告医院に(2)及び(3)を行う人的、物的態勢がないのであれば、そのような設備・態勢のある総合病院に聡を転院させるべきであった。
(5) しかるに、被告は右(1)ないし(4)のいずれをも怠った。
(二) 同月二〇日午後二時の術前レントゲン写真撮影の時点
(1) 被告は、同月二〇日午後二時に撮影された術前レントゲン写真において、聡の胸膜腔内への浸出液の存在及び胸膜腔内への変化を認めた。被告は従来から、肺実質臓器の損傷については血液なり組織液なりが出ることが診断の重要なポイントであると考えていたが、右写真からは、損傷が壁で止まっているのか、肺実質臓器にまで及んでいるのかまでは判定できないと考えた。
(2) そうであるなら、被告は右の時点において、右浸出液の存在及び胸膜腔内への変化の原因が肺実質臓器の損傷にあるのか否かを当然確認すべきであった。そして、右確認のために、肺部の観察を目的としたその目的に耐えうる精度を有するレントゲン機器によるレントゲン写真の撮影、前記(一)(2)のバイタルサイン等のチェックの継続及び動脈血ガス分析を直ちに行うべきであった。
(3) 右(2)の措置が被告医院でとれないならば、前記(一)(4)と同様、直ちに聡を転院させるべきであった。
(4) しかるに、被告は右の(2)及び(3)のいずれをも怠った。
(三) 同月二〇日午後四時(手術終了)から翌二一日午前九時一五分までの間
(1) この間においても聡の容態が急に改善された事実はないのであるから、被告としては当然前記(二)(2)及び(3)の措置をとるべきであった。まして前記4(三)の手術を行ったため聡の体力が消耗していたこと、聡が(胸部の)痛みを訴えていたことに鑑みれば、右措置を採るべき必要性は更に増大していたということができる。
現に同月二〇日夜から、聡はうわごとを言うようになったが、右は意識障害が生じてきたことを示す重要な事実である。このころ聡の肺挫傷は進行し、肺機能の低下から低酸素血症となり、脳障害を生じて意識障害を来たしたのである。
(2) 被告は、原告らに対し、聡の容態に変化又は異常があった場合には直ちに被告に申告するように指示すべきであった。
すなわち、被告自身が同月二〇日午後二時に撮影されたレントゲン写真において肺実質臓器損傷の診断の重要なポイントとなる変化を認めたことは前記(二)(1)記載のとおりであり、仮に右損傷が現実に存在したとすれば、前記4(三)の手術を行ったこと及び弾性帯を装着したことから、聡の肺のガス交換機能が弱まることが十分予測されたのであるから、自らが聡の状態を常時監視できないのであれば、付き添っている原告らに対し、聡の容態の変化又は異常があった場合には、直ちに被告に申告するよう予め指示しておくべきであった。
(3) しかるに、被告は右(1)及び(2)のいずれをも怠った。
(四) 同月二一日午前九時一五分から転院までの間
(1) 同月二一日午前九時一五分、被告は原告らから診察の依頼を受け、その際聡の容態について「苦しがっている。」「熱があるので水枕をしたらどうか。」などと言われたのであるから、直ちに聡を診察し、聡の一般状態、バイタルサイン及び意識状態を確認するとともに、肺部レントゲン写真の撮影及び必要により動脈血ガス分析を行うべきであった。
しかるに被告が聡を診察したのは、同日午前一〇時一〇分ころであった。右診察依頼を受けた当時、被告は当直室から出て来たところであったが、その場所と聡の病室とは数メートルしか離れていなかったのにもかかわらず、右診察依頼から五五分もの間、聡の診察を遅延したのである。
(2) また、午前一〇時一〇分ころの被告の診察も、その内容は原告らに要請されて聡の弾性帯を外しただけであり、体温、脈拍及び血圧等を測定することすらせず、レントゲン写真の撮影や動脈血ガス分析も行わず、およそ十分な診察とはいえないものであった。
(3) 右診察の際、被告は聡に胸内苦悶、呼吸困難、呼吸促迫の症状が存することを認識した。右症状は肺挫傷の場合にも出現するものとされており、このことと前記(二)(1)のレントゲン写真の所見を総合すれば、肺挫傷又は肺実質臓器の損傷のおそれは極めて強いというべきであった。
しかるに被告は、この段階においても肺については全く損傷等の疑いを持たなかった。
(4) 同日午前一一時過ぎ、被告は看護婦から、聡の容態につき「傾眠傾向あり、喘鳴出て来ている。尿失禁あり。」との報告を受けた。
右の症状が一刻を争う極めて重篤なものであることは、それまでの経過から見て明らかであった。したがって、被告は直ちに診察し、必要な措置をとるべきであった。しかるに被告は、経過を見て対処するつもりであったとしながら何ら経過観察の手段をとらなかった。
(5) その後、同日正午ころに至り、聡は尿をいわゆる「たれ流す」状態となり、チアノーゼも出現し、意識も不明となった。そのため原告らは、二回にわたり被告に診察を依頼した。しかるに被告は、その後も聡を一回も診察しなかった。
(6) その後、小武海医師が被告医院に到着し、聡を診察してその状態が重篤であることを危惧し、原告緑と共に被告のもとに赴いて転院の申し出をしたこと、及びその際の被告の応対は5(一)ないし(三)記載のとおりである。
小武海医師は専門外ではあっても聡の容態を極めて危険なものと判断し、被告にそれを説明したうえで転院の話をしたのであるから、被告は聡の病状が緊急の対処を要するものであることより明確に知り得た。また、原告らは、転院の申出はしても、被告の速やかな診療と適切な診療を強く望んでいたのであり、原告らが被告の診療を拒絶した事実は全くない。従ってこの段階では被告にはそれまで以上に強い診療義務が生じていたものであり、緊急に聡の容態を診察するのが瀕死の状態にある患者に対する医師としての当然の義務であったというべきである。しかるに被告は、この段階に至っても、小武海医師に感情的に応対しただけで、聡の容態を診ようともしなかった。
(五) 以上述べたとおり、被告に診療契約上の債務不履行ないし不法行為法上の過失があったことは明白である。
9 因果関係
(一) 聡の死亡原因は肺挫傷である。すなわち、前述のように被告が聡の病状に対する観察を殆ど行わず、そのために聡の肺挫傷の診断をなし得ず、聡に対する有効な処置を採り得なかったことにより、聡の肺のガス交換機能は立川病院の治療によって回復されるまでの間著しい低下状態が継続し、このため動脈血中の酸素の量が少なくなって脳に供給されるべき酸素の量もその間著しく減少した。その結果、聡の脳に不可逆的な変化が生じ、それが心停止の原因となり、一旦は蘇生したもののいわゆる脳死の状態に陥り死亡するに至ったものである。
そして、肺挫傷に対する適切な治療がされない場合には右のような経過を辿って死に至る場合があること、また早期の適切な治療によって死亡を容易に回避し得ることは医学的な常識であり、外科医ならば当然に承知していることである。
(二) 肺挫傷に対する治療はそれによって二次的に起こる脳障害が回復可能な状態にあるうちに行われる必要があるのであるが、聡の場合、立川病院の治療の効果が現れる前に既に脳障害が不可逆的(回復不能)なものに進行していたため、立川病院では救命は不可能であった。しかし右の脳障害は被告医院入院中に進行し増悪していったのであり、少なくとも被告医院入院中には不可逆的なものにまでは至っていなかったというべきである。
しかも、その間前記7で述べたように肺挫傷を推認させる症状は次々と出現していたのであるから、被告が聡の脳障害が回復可能なうちに肺挫傷を診断し、それに対する適切な処置(転院措置を含む。)をとることは十分可能であった。しかるに被告はそれを怠り、聡を死亡に至らせたものであり、被告の診療契約上の債務不履行ないし不法行為法上の過失と聡の死亡との間に相当因果関係があることは明らかである。
10(損害の発生とその数額)
(一)(聡に生じた損害)
(1) 被告の不法行為ないし債務不履行により、聡は次のとおりの損害を被った。
<1> 逸失利益 四〇二六万六九七八円
算定根拠
男子全年齢平均給与額
月額二八万一六〇〇円
二〇才の新ホフマン係数
二三・八三二二五五
生活費控除 五〇パーセント
数式
281.600×12×23.832255×0.5=
40,266,978
<2> 死亡による慰謝料 二〇〇〇万円
聡は前記のとおり、中央大学法学部法律学科二年に在学し、将来父の後を継いで弁護士になるべく勉強中の者であった。このような聡の境遇や被告の前述した過失の態様等を考慮すると、聡に対する慰謝料は二〇〇〇万円が相当である。
(2) 原告らは、聡の死亡により、右損害賠償請求権を各二分の一ずつ相続した。
(二)(原告ら固有の慰謝料)
(1) 前記8に述べたとおり、被告の重大な過失により、原告らの次男である聡は死亡するに至った。よって、被告は、原告らに対し、民法七一一条に基づき慰謝料を支払う義務がある。
(2) 本件における被告の過失の態様、転院に際しての被告の言動、その他一切の事情を斟酌すれば、被告の不法行為によって原告らが被った精神的損害に対する慰謝料は、各一〇〇〇万円が相当である。
(三)(弁護士費用)
原告らは、本件訴訟追行を原告ら訴訟代理人に委任し、請求額の約一割にあたる各四〇〇万円を弁護士費用として支払う旨約した。
11 原告らは、前記2記載の交通事故につき自動車損害賠償責任保険から聡死亡による損害の填補としてそれぞれ七〇四万三五七〇円の支払を受けた。
12 よって、原告らはそれぞれ、被告に対し、債務不履行又は不法行為による損害賠償請求権に基づき、金三七〇八万九九一九円及び弁護士費用を除く内金三三〇八万九九一九円に対する聡死亡の日である昭和五七年三月二四日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する答弁
1 請求原因1は認める。
2 同2のうち、聡の受傷の内容については否認するが、その余は認める。聡の受傷の詳細は、後記三1(一)記載のとおりである。
3 同3のうち、「脳震盪により」との点は知らないが、その余は認める。
4 同4について
(一) 同(一)のような治療を行ったことは認めるが、外来での処置加療が終わって入院したのは、三月一九日午後九時のことである。
(二) 同(二)は否認する。
(三) 同(三)のうちキルシュナー綱線挿入術及び持続綱線牽引術を施行したこと、幅二〇センチメートル、伸長四・五メートルの弾性帯二本でゆるめに肋骨固定術を施行したことは認めるが、その余は否認する。キルシュナー綱線挿入術は二〇日午後三時から開始され、午後三時一五分には終了したものであり、右手首の骨折に対し添木をあてて固定する処置は一九日の入院時に施行し、継続していたものである。
(四) 同(四)は認める。
(五) 同(五)のうち、二一日午前九時過ぎ原告緑が被告の診察を求めたこと、被告が聡の弾性帯(アップ帯)を除去したことは認めるが、その余は否認する。その詳細は後記三1(三)記載のとおりである。
(六) 同(六)は認める。
5 同5について
(一) 同(一)については、小武海医師が被告医院を訪れたことは認めるが、その時間及びその際の聡の状態については否認する。
(二) 同(二)は否認する。
(三) 同(三)のうち、小武海医師が被告のもとに来て転院の申入れをしたことは認めるが、その余は否認する。原告緑は被告にもとに来ていないし、小武海医師と被告の会話の内容は後記三1(四)記載のようなものであった。その後、小武海医師から救急車手配の要請があったが、自己理由で退院するというので、小武海医師にゆだねたものである。
(四) 同(四)のうち、聡が救急車に運び込まれ、立川病院に転院したことは認めるが、被告医院を退院したのは二一日午後二時四五分ころのことである。なお、このとき救急隊隊長から被告に対し、医院管理者の移送許可がなければ患者を移送できないとの話があったので、被告は他の患者に対する手術の手を休めて緊急に移送を要請している。
6 同6は不知。
7 同7は争う。
8 同8及び9はすべて否認ないし争う。詳細は後記三2及び3記載のとおりである。
9 同10はすべて否認ないし争う。
三 被告の主張
1 事実関係について
被告医院における診療内容の詳細及び聡の転院の経緯は以下のようなものであった。
(一) 三月一九日の診療内容
聡は、請求原因2記載の交通事故により、左後頭部、左前額部、背部、右前腕及び左下腿を受傷し、午後八時二〇分、被告医院に救急来院した。聡は来院時の意識は正常であったが、受傷前後のことに関しては全く覚えておらず、著しい逆行性健忘症状を呈しており、患肢を除き神経反射は正常、また左肩胛部痛を著しく訴えていたため、直ちに頭蓋骨、左肩胛部、左下腿骨のレントゲン検査を行い、左後頭部に約六センチメートルの割創、左前額部に約三センチメートルの挫創、左下腿部に約二センチメートルの挫創を認め、「脳震盪症、左後頭部打撲割創、左前額部挫創、両肩胛部・背部打撲、左第五、六、七肋骨骨折、左下腿挫創、左両下腿骨開放骨折の多重外傷」と診断、直ちに局所麻酔下デブリドマン後、諸挫創・割創の縫合術を施行、打撲・骨折部を計五ケ所冷湿布処置、左大腿部から足踵にかけて副子固定、外来処置に約四〇分かかった後、同日午後九時、入院した。
入院直後より聡には右前腕・腕関節部痛の訴えがあり、視触診の結果明らかな同部の変形が認められ「前腕部骨折」を診断するも、全身症状に特変を与えるものではないので翌日レントゲン検査をすることとして同部を冷湿布処置、前腕から手背にかけて副子固定し、その後感染症併発の危険防止のための抗生物質、出血防止のための止血剤、脳傷害防止のための意識障害治療剤等を含めての点滴輸液加療(一〇〇〇立方センチメートル余)を開始した。
同日入院後の夜間は肋骨骨折のためか左肩胛部痛、骨折部痛が著明にて、入院直後の午後九時、同一一時、翌日深夜午前二時の三回にわたり鎮痛鎮静剤を注射した。
(二) 三月二〇日の診療内容
午前九時の看護婦による定期検温後、前日同様の内容を含む点滴輸液加療(二五〇〇立方センチメートル余)を開始した。
午後二時過ぎ、左下腿骨骨折に対するキルシュナー綱線左踵骨部挿入術施行に先立ち、左前腕骨骨折部の精査、胸部(肋骨骨折部を含めての)経過観察及び術前精査目的のために胸部・左右肋骨・右前腕骨のレントゲン検査を施行し、胸部・左右肋骨レントゲン写真で胸部に肺実質の障害を思わせる陰影、胸腔内血腫形成、滲出液の貯溜を思わせる陰影、肺気腫像等の特変所見を認めず、右前腕骨骨折は右橈骨下端脱臼骨折と追加診断した。同三時、右手術を開始、三時一五分に終了し、諸縫合創創傷処置、諸打撲骨折部冷湿布処置を行い、午後四時過ぎ左両下腿骨折に対し馬蹄状の金属枠(いわゆる馬蹄)をつけて三キログラムの持続綱線牽引術を開始するとともに、肋骨骨折による左肩胛部痛の訴えが著しいためアップ帯二本(二〇センチメートル幅、伸長四・五メートル)でゆるめに肋骨固定術を施行した。
午後六時三〇分、当時予定したすべての点滴輸液が終了、患者は時にうわごと様に話するも意識はほぼ明瞭、オリエンテーションも良好であり、病室から何の訴えもなく経過、ナースコールのブザーも鳴らず、夜は鎮痛鎮静剤を使用することもなく過ごした。
(三) 三月二一日の診療内容
午前九時過ぎ、聡に付き添っていた原告緑から診療依頼の訴えがあり、九時三〇分に朝の回診を行った。この時点で聡は興奮気味、瞳孔左右不同なし、散瞳なし、口唇、爪床部にチアノーゼなし、という状態であり、被告が昨日のアップ帯による肋骨固定が少し強すぎたかと思って弾性帯を除去した(原告ら主張のように原告敬に言われて除去したものではない)ところ、直ちに呼吸困難は軽快し、呼吸促迫も鎮静化傾向あり、興奮状態も治まった。そこで被告は更に経過を観察することとし、原告敬に対し、「お父さん、弾性帯を取ったら楽になったので少し様子を見ましょう。これ以上悪くなるなら酸素ですよ。」といって退室した。その後経過をみて症状が増悪する傾向にあれば再診、再精査、その後の処置をと考えていた。
午前一〇時三〇分、当日予定の点滴輸液加療を開始。同一一時ころ、当直看護婦からの報告によれば、傾眠傾向あり、喘鳴も出てきた、尿失禁ありとのことであったので、今後の経過によっては総合病院へ転院加療の必要をも感じていた。
(四) 転院の経緯
(1) 午後一時過ぎ、小武海医師が一人で被告のもとに現れた。その際の小武海医師の発言は、今聡の容態を診察してきたのだが、かなり重いようなので、良くなったら自分の知っている病院に移したい、というものであり、それまで全力を尽くして治療してきた被告の立場を全く無視するものであった。そこで被告が、医者なら医者の立場がわかるはずではないか、と抗議したが、小武海医師は聞き入れなかったので、被告は、それならもう患者を診ることはできないから自由にしてください、と告げると、小武海医師は、では相談してきます、と言って退室した。
(2) その後、被告は小武海医師と原告らとの相談の結果についての返事を待っていたが、返事のないのにしびれを切らして、午後二時、他の患者の手術のため腰椎麻酔を開始した。その直後、小武海医師から救急車の手配の要請があったが、自己理由で退院するというので、小武海医師自身にゆだねた。そして被告が右手術を開始し執刀中、小武海医師が呼んだ救急車が来院した。救急隊隊長から医院管理者の被告の移送許可がなければ患者を移送できないとの話があったので、被告は手術の手を休めて緊急に移送を要請し、午後二時四五分ころ、聡は転院した。
2 被告の過失について
(一) 入院直後から二一日午前九時過ぎの原告緑の診察依頼まで
(1) 肋骨骨折から肺部実質臓器の損傷を疑うべきであったとの主張に対する反論
聡は、救急来院時には受傷前後の事実については不明であるほどであり、かつ前記三1(一)記載のような多くの骨折・挫創もあり、被告も脳挫傷を疑うほどの状態であった。
原告らは、第五、六、七肋骨の骨折の所見をことさら重要視して、それが肺の実質臓器損傷の可能性を十分疑わせるものであったと主張しているが、このとき聡が訴えていた疼痛の部位は前記1(一)記載のとおりであり、それだからこそ来院時点でのレントゲン検査は右肩胛部中心のものとなり、その写真で肺の実質臓器に関しては損傷による陰影を認めないことから、当面問題なしと認定しているのである。
多重外傷は多彩な症状、所見をとるものであって、肋骨骨折があったからといって、それが肺の実質臓器の損傷を十分疑わせるものではない。そもそもこのような直後の状態から直ちに肺挫傷を疑うべきであるという単純・簡明なものではなく、その後の経過観察により、徐々に鑑別診断の対象が明瞭となってくるものであり、この時期は救急処置をして目前に迫っている生命の危険をまず避けるため、最大の努力を傾注すべき時期であって、原告らのいうように肺挫傷を確診しうる状況ではないのである。
(2) 胸部レントゲン検査につき、原告らは少なくとも六時間毎に行うべきであったと主張するが、何ら根拠のない主張である。医師は患者の容態を観察しながら適宜症状の変化に応じてそれに対する対策を講じ、必要があればレントゲン検査を行うものであり、事実被告も受傷当日の一九日午後八時四〇分ころ及び二〇日午後二時過ぎに右検査を行っている。
(二) 二一日午前九時過ぎの原告緑の診察依頼から転院までの間
(1) 二一日に被告が聡を診察した時間は午前九時三〇分ころであり、診察を遅延したとの原告らの主張はその前提において誤っており失当である。また、その際の被告の診療内容及び原告らに対する説明内容は前記三1(三)記載のとおりであり、原告らも被告の右説明を納得し、それ以上被告に何も申し述べていない。前述のように、被告はその後の経過を診て、症状が増悪する傾向があれば再診、再精査、その後の処置を考慮していたのであり、また、右診察の際、被告は「これ以上悪化するようなら酸素吸入しかない。」と述べているのである。
(2) 原告らは、同日の看護婦からの報告に対し、報告が経過をみて対処しようとしたことを批判するが、右報告のうち、「傾眠傾向あり」「尿失禁あり」は明らかに脳症状であり、「喘鳴が出てきている」のみか肺挫傷には必ずしも限定されない胸部症状であるにすぎないのであり、被告が肺挫傷を診断すべきであったとの根拠となるものではない。
(3) 二一日午後一時過ぎの小武海医師の転院の申出により、被告としては患者を診察、治療することができなくなったものであり、かかる申出がなければ、聡の症状の推移を密に観察することもできたし、これに応じた処置も採り得たものであって、右時点以降被告が聡を診療しなかったことを被告の過失とするのは失当である。
(三) 聡の容態と被告の診療全体の評価について
肺挫傷の症状と診断とについては、原告主張の諸症状のほかに、咳嗽、血痰、血性泡沫の喀出がみられるし、他覚的には、特に湿性ラ音が初期に聴取されることが多い、とされている。そして、それらの症状は多重外傷を負った患者にも共通にみられるものもあるが、即時に現れるものではない。時間の経過とともに病像が徐々に鮮明となるものもあるが、かなり時間を経過しても鑑別し得ないこともあるのである。
しかるに聡においては、血痰・血性泡沫の喀出もなく、呼吸の状態も異なっており、湿性ラ音が聴取されたわけでもなかった。
聡は立川病院に搬入するころに多くの症状が診断し得る程度に現出し、病像が鮮明に浮かびあがってきたものであって、原告らの指摘するような肺挫傷の診断は、その病態生理からいっても被告の診療期間中の臨床症状、胸部レントゲン検査所見からは不可能であり、被告には過失と評価されるような診断・医療行為は認められない。被告医院入院中は、より重篤な肺挫傷に対する観察を行っていた時期だったのである。
3 因果関係について
(一) 聡の死因について
(1) 肺挫傷の陰影は、三月二三日の立川病院の胸部レントゲン検査では全く消失しており、この時点で正常の状態とほとんど変わりがない程度に治癒していた。したがって、その後の聡の死亡は肺挫傷によるものとは考えられない。
(2) 聡の死因は肺挫傷ではなく、脳外傷を含む多重外傷の複雑輻湊した病態生理に加えて、小武海医師の無謀な被告との問答による転院遅延、立川病院での不十分な管理体制、検査体制の不備が(いわゆる肺挫傷がレントゲン検査上軽快したにもかかわらず)、循環ショックによる心停止、心拍再開後の脳死状態を来たし、死に至らしめたものなのであり、間接的・直接的死因論は、患者が解剖をされていない以上、医学的には確定は全くできないが、むしろ転院した後、聡の頭部の原因(肺挫傷等)が悪化したことによるものと考えられる。
(二) 立川病院での聡の容態及び立川病院の治療について
立川病院における診断、治療などについては、大病院にもかかわらず患者の状況の変化、対応、処置、その他の記録がなく、記録上現れた治療行為も以下に述べるように多くの点で適正とは言い難く、不完全なものであった。
(1) 立川病院入院時の診察は、意識、呼吸数、脈拍数、骨折等が調べられ、チアノーゼはないとされ、レントゲン検査・CT検査は、技師が「レントゲン学会のため不在につきとれない」とされ、行っていない。
(2) その後、レントゲン検査のため一階へ、更に地下のCT室へと聡を移送させたが、ここでチアノーゼが増強し、状態不良となり、CT検査は中止され、酸素吸入が再開された。
(3) 午後六時三四分気管内挿管を行いレスピレーター治療が開始されたが、その直前、父親の話しかけに聡は「うんうん」とうなずいており、立川病院入院当初の神経学的所見とも考えあわせれば、この時点で既に脳の不可逆的変化が完成していたとはいえないことは明らかである。
(4) レスピレーターによる陽圧呼吸が開始されたにもかかわらず、聡の呼吸状態はその後改善されていない。これはレスピレーター陽圧呼吸などの器械による呼吸管理には必要不可欠の検査である動脈血の血液ガス分析が、ガス分析器械が壊れていたために一度も行われていないことのためであると考えられる。また、聡の変化についての医師記録もなく、呼吸状態が改善されないまま、午後一一時以降は看護婦の観察にまかされている。このように、立川病院では、肺挫傷の診断がなされていたにも拘らず、そのための治療として必要かつ適切な呼吸管理が行われないまま放置されていたのである。
(5) 更に立川病院では、午後一〇時ころ、心襄穿刺が行われているが、右はその目的が不明である。心襄穿刺は間違えると心臓を刺すことになるので慎重にされるべきであるし、右処置により心臓自身が負担を受け、心機能へ悪影響を与えた可能性も、聡の心停止の原因として考慮されるべきである。
(6) また、肺挫傷や脳浮腫を考慮しての治療とすれば、水分出納のチェックが極めて重要であるのに、二二日午前二時の時点での水分バランス計算では、二一〇〇立方センチメートルの過剰投与となっている。これが聡の低酸素血症の悪化、心陰影拡大ひいては心停止の原因として考慮されるべきである。
(7) その他、聡が心停止を来たし、蘇生術後も脳死状態となった原因としては、<1>血圧測定が十分行われなかったために、血液循環系の管理がおろそかになった、<2>気管内挿管後調節呼吸で使用した大量の薬剤による血圧降下の副作用の発現、<3>心停止後の対応の不適切、<4>当直医師などの緊急事態への応急体制の遅滞、<5>心停止、脳死状態後の対応の不可解さ、等が考慮されるべきである。
(8) 立川病院の聡に対する治療は、以上に述べたように多くの不適切な点が存在するところ、聡の被告医院から立川病院へ転院したときの病状等から見て、当時の聡は十分回復可能な状況であり、立川病院において適切な治療を行ったのであれば死亡に至らなかったのであるから、死亡の直接の原因責任は立川病院の治療行為にある。したがって、被告の治療は、聡の死亡と因果関係はなく、死亡について被告に責任はない。
第三 証拠<省略>
理由
一 請求原因1(当事者)の事実及び同2(交通事故の発生)のうち、聡の交通事故による受傷の内容を除くその余の事実は、いずれも当事者間に争いがない。
二 請求原因4(被告医院における診療経過)について判断する。
1 聡の入院から翌二〇日までの診療経過
被告が聡の入院(三月一九日)直後頭部及び足のレントゲン写真の撮影、頭部創傷の縫合、額の擦過傷の治療並びに足の骨折部分を固定する応急措置を、また、翌二〇日午後にキルシュナー綱線挿入術及び持続綱線牽引術をそれぞれ行ったこと、原告敬が同日午後三時四五分ころ、原告緑が同日午後五時三〇分ころ、それぞれ被告医院に到着し、以後聡に付き添っていたことは、いずれも当事者間に争いがない。
右の争いのない事実のほか、<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
(一) 三月一九日の診療内容
聡は、三月一九日午後八時二〇分ころ、被告医院に救急入院した。
被告の初診時の診察では、聡の意識は明瞭であったが、受傷当時の記憶はなく、逆行性健忘の症状を呈しており、血圧は最大一二〇、最小七〇、悪心・嘔吐はなく、健肢(患肢を除く四肢)の神経反射は正常、左肩胛部痛の訴えあり、左後頭部に約六センチメートルの割創、左前額部に約三センチメートルの挫創、左下腿部に約二センチメートルの挫創を認めた。更に、被告は、頭蓋骨、左肩胛部、左下腿骨のレントゲン検査を行い、その結果、「左後頭部打撲割創、脳震盪症、左前額部挫創、両肩胛部・背部打撲、左第五、六、七肋骨骨折、左下腿挫創、左両下腿骨開放骨折」と診断し、引き続き局所麻酔下デブリドマンを行った後、右の挫創・割創の縫合術を施行し、打撲部及び骨折部を冷湿布処置し、左大腿部から足踵にかけて副子による固定処置を行い、午後九時ころ、入院手続を行った。
その後、抗生物質、止血剤、意識障害治療剤等を含んだ点滴輸液加療(一〇〇〇立方センチメートル余)が開始され、また、同日午後一一時から翌二〇日午前二時ころにかけて、左肩胛部痛、骨折部痛の訴えのため、三回にわたり鎮痛鎮静剤の筋肉内注射が行われた。
(二) 同月二〇日の診療内容
翌二〇日午前九時に看護婦による定期検温後、前日同様の内容を含む点滴輸液加療(二五〇〇立方センチメートル余)が開始された(同日午後六時三〇分ころに終了。)。
同日午後二時過ぎころ、術前検査として、胸部(一枚)、「左右肋骨」(二枚)、右前腕骨(一枚)の各レントゲン写真撮影が行われ、同日午後三時ころには、腰椎麻酔下で被告の手によって左下腿骨骨折に対するキルシュナー鋼線左踵骨部挿入術が施行された。手術終了後、馬蹄状の金属枠をつけて三キログラムの持続綱線牽引術が開始され、また肋骨骨折による左肩胛部痛の訴えに対し、二〇センチメートル幅、伸長四・五メートル規格の弾性包帯(商品名アップタイ)二本で肋骨固定術が行われた。
以上の事実が認められ、<証拠>中右認定に反する部分はにわかに採用することができず、ほかに右認定を覆すに足りる証拠はない。
2 同月二一日の診療経過
(一) 原告らの診療依頼時の状況
原告緑が二一日午前九時過ぎころ被告に対し聡の診察を求めたことは当事者間に争いがなく、右の争いのない事実のほか、<証拠>によると、次の事実が認められる。
二〇日夜から二一日朝にかけて、聡は手を動かして包帯をかきむしろうとしたり、手を押えてそれをやめさせると、今度は下に左手を伸ばしてそれを上にあげて深呼吸したりするような動作を断続的に一晩中続ける状態であった。
しかし、明け方になると、聡はそうした動作をする元気もなくなり、呼吸も原告らの素人目にも苦しそうに見える状態で、手を当てると非常に熱いので、原告らは聡の容態を不安に思い、一刻も早く被告に診てもらいたいと考え、原告緑が被告のもとに診察依頼に行った。午前九時一五分ころ、宿直室から出てきた被告に対し、原告緑が「苦しがっているから診てほしい。」と申し出たが、被告は、「(苦しいのは)当たり前だ。」と言って取り合わず、「水枕もどうでしょう。」と更に原告緑が尋ねたのに対しても、「だから素人の付き添いは困る。」と原告緑を叱りつけただけであった。
以上の事実が認められ、<証拠>中右認定に反する部分はにわかに採用することができず、ほかに右認定を覆すに足りる証拠はない。
(二) 被告の最終診察
(1) <証拠>によると、次の事実が認められる。
被告は、同日午前九時三〇分ころから午前一〇時少し前ころまでの間に、一人で聡の病室に姿を見せた。
原告らは、被告に聡の昨晩の状態を説明し、今は静かになっているが、ぐったりしているのではないか、何とか楽にしてやってほしいと考え、「弾性帯を取ってやってほしい。」と頼んだ。すると被告は、「痛みが走るからそれを止めるため呼吸を小さくしてやっている。痛いのより苦しい方がいいのなら取ってやろう。」と言って聡の弾性帯を外したが、原告らは、自分達から申し出たことが被告の勘に触ったように感じた。
このとき被告は、聡に呼吸困難、呼吸促迫の症状があることを認め、呼吸数も一分間に四〇近くあるように思ったが、時計を使った正確な測定は行わなかった。そのほか、被告は聡の頭に手を当て、傷口を開けて診たりしたが、胸部の打聴診や血圧や脈拍の測定は行わなかった(またこの時、被告が原告緑から、聡がコンタクトレンズをしているのではないかとの指摘を受け、初めてそのことに気づいてそれを外す、ということがあった。)。
被告は聡の弾性帯を取った際、聡に「楽になったろう、泉君。」と声をかけ、聡は「はい」と答えたが、原告敬には、締めつけられていたのがほっとした状態ではあっても、それで呼吸が楽になったようには見えなかったので、被告に、「これ以上楽にする方法はないか。」と尋ねたところ、被告は「酸素しかない。」と答え、一〇ないし一五分で退室した。そこで原告らは、被告が間もなく酸素吸入の措置をとってくれるものと思い、そのまま被告が再び病室に現れるのを待っていたが、結局被告はその後、聡の転院まで一度も姿を見せなかった。
(2) 以上の認定に対し、<証拠>中には右最終診察時の聡の状態及び診察の内容につき、それぞれ右認定に反する部分が存在する。
しかしながら、まず聡の状態及び診察内容についての右各証拠の該当部分については、被告本人尋問の結果が、この最終診察に関して、一方ではよく覚えていると断言しながら、特定の部分(たとえば弾性帯を取るきっかけやその際の問答など)では全然覚えていないの一点張りに終始したり、カルテの「興奮状態」との記載の意味につき具体的な説明が十分できず、また意識状態につき「オリエンテーションがついた。」と供述しながら、その際のやりとりは「楽になったでしょう。」「はい」だけだったではないか、という原告敬の反対尋問に対し「つまらない議論だと思う。」としか答えていないこと(右のやりとりだけでは「オリエンテーションがついた」とはいい得ないことは明らかである。)など、全体として極めて曖昧であることに照らし、にわかに措信することができない。
次に、右最終診察の時刻については、<証拠>中には、それが午前一〇時一〇分ころであったとする供述ないし陳述部分が存するほか、前掲甲第三号証の二の看護記録中にも、胸部包帯除去を午前一〇時とする記載が存する。しかし、他方において被告医院の診療録である前掲乙第一号証には、その時刻を午前九時三〇分とする記載が存し、被告人もその旨供述している。そして、<証拠>によると同日午前一〇時ころには被告は訴外吉沢常雄の診察をしていた事実がうかがわれ、また、右最終診察に看護婦が同行せず、被告一人がこれを行ったことは前認定から明らかである(右認定に反する証拠はない。)。そうすると、被告が聡を診察した最終時刻は、若干のずれはあるとしても、同日午前九時三〇分ころから遅くとも午前一〇時少し前までの間であったことは動かせない事実として認めざるを得ないところであり、反面、これを午前一〇時ないし一〇時一〇分ころとする前掲各証拠はにわかに採用し難いものといわなければならない。そこで、前記のように認定した次第である。
(三) 被告の最終診察後、小武海医師の到着まで
<証拠>によると、次の事実が認められる。
その後午前一一時ころになり、看護婦が点滴のために病室に姿を見せ、原告らに尿の回数を数えるよう、また体温を計っておくように告げて帰ったが、このとき原告らが聡の体温を計ってみると、摂氏三八・六度まで上昇していた。更に午前一一時半ころからは聡は尿を出そうとしても出なかったり、尿瓶を原告らがあてる前に排泄してしまったりするようになり、一二時過ぎには完全な「たれ流し」状態となって、薄目を開けて白目を見せるようになってきたので、聡の容態が更に悪化しているのではないかとの原告らの心配は極度に達した。そこで原告緑が二度にわたり被告のもとに赴き、診察を依頼しようとしたが、被告は二度とも診察室にいたため直接には話すことができず、やむなく看護婦に対し、被告に早く診察に来てもらいたいと頼んだが、結局被告は二度と病室に姿を現さなかった。
一方被告は、同日午前一一時ころ、看護婦から「傾眠傾向があり、喘鳴も出てきた、尿失禁あり。」との報告を受けたが、聡を診察しようとはしなかった。
以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
三 請求原因5(小武海医師の被告医院への到着と転院の経緯)について判断する。
1 小武海医師の転院申出の経緯
<証拠>によると、次の事実が認められる。
(一) 三月二一日午前一一時ころ、修(前記のように聡の兄である。)は、友人の訴外小武海成朗に電話をかけて、聡が交通事故で入院して、病院へ荷物を運搬したいので、車を貸してくれないか、と頼んだ。同訴外人の父である小武海医師は、その話を聞き、自ら荷物を運搬した方がよいだろうと考え、また入院先の診療体制が聡の治療に十分なものかについての懸念もあったため、自分が被告医院を訪れることにし、同日午後一時少し前ころ自宅を車で出発し、一時三〇分ころ被告医院に到着した。
(二) 小武海医師は被告医院に到着してすぐ聡の病室に入ったが、その容態を見た瞬間、それが予想していたのとは異なり、一見して重篤なものであるとの印象を受けて驚いた。そこで同医師がその場で簡単な診察を行ったところ、聡の顔色は蒼白になっており、四肢の末端には軽いチアノーゼ様の変化を認めた。呼吸数は一分間に四〇前後で、ハアハアと苦しそうに呼吸しており、脈拍は、一分間に一六〇から一七〇前後と、いずれも正常時よりはるかに多い状態であった。また、呼びかけても答えず、肩のあたりを叩いても全然反応を示さないので一層心配になってその場で瞳孔を診察したところ、軽い散瞳がある上、対光反応が極めて遅延していることを認めた。同医師は、右はかなり重大な意識障害があることを示す所見であるが、麻酔剤を打ったためではないかとも考え、付き添っていた原告らに尋ねたところ、そのような事実はなく、さらに失禁があるという事実を聞かされ、いよいよ聡の全身状態が楽観を許さないほど重篤なものであるとの認識を持った。そしてその原因としては、呼吸状態が極めて不良であることから、第一に呼吸器系の病変を、第二に脳の病変を疑った。
このような状態に接して、同医師は、聡の治療は設備が整って専門医の協力が期待できる大病院でないと無理ではないかと考え、また、少なくとも当面の状態改善のためには酸素吸入が第一であると考えられるのに、被告の医院ではそれも行っておらず、酸素を通す配管も見当らなかったことから、聡をすぐに転院させた方がよいと考え、原告らに対しその旨を告げた。
以上の事実が認められ、<証拠>中、右認定に反する部分はにわかに採用することができず、ほかに右認定を覆すに足りる証拠はない。
2 小武海医師と被告との問答
<証拠>によると、次の事実が認められる。
(一) 1にみた経緯の後、小武海医師と原告緑は診療室にいた被告のもとを訪れた。まず、同医師が、自分は原告らの親戚の医者で、立川に住んで開業している者だが、この病気はとても長引く可能性が明白である。良くなると宿泊の問題等でいろいろ大変だから、できたら立川の近辺のところに転院したいと思う、との趣旨のことを告げた。同医師としては、右は被告のプライドを傷つけぬようまわりくどく言ったつもりであったが、被告はそれに対し、最初は少し驚いたような様子で、それから急に怒り出した。このとき被告が小武海医師に言った言葉は、次のような趣旨のものであった。
「転院する必要は全くない。あなたはこの患者をみて重症か重症ではないかの判断もわからないのか。この患者はみてわかるとおり、重症ではない。私のところで十分できる。したがって移す必要は全然ない。その判断も君はわからないのか。医者として最低じゃないか。患者が悪いときに私が一生懸命やっていて、大体処置が終わり安定した段階で、今ごろ出て来て何をいうか。」
小武海医師も、途中からは自分の診た印象を被告に説明し、容態の重篤性から被告医院では治療が難しいと、率直な言い方もしたが、それでも被告は「私のところで治せる。」というばかりで、同医師の意見を聞き入れようとはしなかった。
結局、被告が「あなたはどこの大学を卒業したのか。」と尋ね小武海医師が「慶応です。」と答えると、被告が「慶応ではそのような教育をするんですか。」と言うなどのやりとりがあった後、被告が「退院するなら勝手に退院しなさい。私は診ませんよ。お金を払ってすぐ退院してください。」と以後の診療を拒否する旨を宣言し、小武海医師と原告緑はやむなく病室に戻った。
(二) 以上の認定に対し、被告は、この時被告のもとを訪れたのは小武海医師のみであり、原告緑は姿を見せていないし、この小武海医師と被告との問答の内容は、小武海医師が被告に対し「実は今、泉聡君の診察したのですが、容態がかなり悪いようですし、良くなったら私の知っている病院に移したいのですが。」と言ったので、「容態が良くなったらというのはどういうことですか。医者なら医者の立場がわかるはずでしょう。あなたはどこの大学を卒業したのですか。」と被告が反論し、「慶応です。」「慶応大学では今まで診てきた私の立場を無視するようなそんな医学教育をしているのですか。」「見解の相違ですね。」「それならわかりました。もう患者を診ることはできませんから自由にしてください。」というものであったと主張し、<証拠>中には右主張に沿う部分がある。
しかしながら、まず問答の内容に関していえば、そもそも被告主張にかかる小武海医師の「容態が悪いようですし、良くなったら転院させたい。」という申出はそれ自体意図が不明であって、被告の主張によっても当時の聡の状態を重篤なものと考えていたと思われる小武海医師が、そのような時期に右のような状態の改善には何ら意味を持たず、却って被告の不興を買うおそれが高いことを告げるだけのためにわざわざ被告のもとに行くとは考え難いばかりか、被告の主張によっても、被告がそれ以後の聡の診察を拒否したことを自認していることは明らかであるところ、そのように被告を感情的にさせた原因としては、聡の状態について、この時点で被告が重篤なものであるとは全く考えていなかった(そうでなければ「良くなったら転院させたい。」との申し出を受けたからといって、当面の治療を放棄する正当な理由となると被告が考えたとは思われないし、仮にそう考えて以後の診療を拒否したのだとすれば、これ自体が極めて重大な債務不履行ないし不法行為となることは明白というべきである。)のに、小武海医師から状態が重篤であるから転院させた方がいいとの指摘を受けたためであると考えるのが自然というべきである。加えて被告本人尋問の結果中においても、被告は当時小武海医師に対して「ここでも十分治る。どうして転院の必要があるんだ。」という言い方をしたかもしれないとも供述している。次に、この時原告緑が被告のもとを訪れたかについても(右事実の存否自体、被告の過失を判断する上で何ら影響を与えるものではないと考えられるが、それはともかくとして)、原告らの当時の心境としては、実際に転院するとしても被告の協力がなければ迅速適確には行えないことは明らかであるから、何とか被告の機嫌を損ねず、その協力を得たいと考えていたであろうことが推測され(従前から原告らが、被告の機嫌を損ねず、聡の診療をもっと密にしてほしいと苦慮していたことは、既に認定したところから十分に推察されるというべきである)。そのような原告らとしては、小武海医師に任せきりにするより、自らも被告のもとへ行こうとするのは十分にうなずけるところであるし、また、小武海証言及び原告敬本人尋問の結果におけるこの点に関する供述は明確かつ具体的であり、先にみたようにこの際の問答の内容についても合理的なものとは言い難く措信し難い被告本人尋問の結果に比し、信用性は高いものというべきである。
したがって、右の各反対証拠はいずれも採用することができず、ほかに前記認定を覆すに足りる証拠はない。
3 転院の経緯
<証拠>を総合すると、以下の事実が認められる。
小武海医師と原告緑が病室に戻った後、同医師は原告敬に右話合いの結果を告げたうえ、自らが以前勤務していたことがあり三多摩地区では有数の大病院である立川病院に聡を移したらどうか、と申し出、原告らの賛成を得た。
そこで、同医師が立川病院に電話をして、友人である同病院脳外科部長の訴外中川活治(以下「中川医師」という。)に転院の受入を依頼して了解をとり、一方救急車の要請は通常主治医がすることになっているため、原告敬が被告に右要請を依頼することとなった。ところが原告敬が外科の手術台のところにいた被告のもとに行き、救急車の要請をするよう頼んだところ、被告は「そんな必要はないでしょう。私は救急車を呼びませんよ。」とこれを断った。原告敬は更に、聡が失禁状態でチアノーゼも出ていて、顔色も相当赤黒い状態だし、何とかお願いしたい、と必死に頼んだが、被告はなおも「帰るなら勝手に寝台車でもハイヤーでも呼んで連れて帰ればよい。絶対に呼ばない。」と右依頼を強く拒絶した。やむを得ず原告敬は病室に戻り、小武海医師に右結果を告げたところ、同医師は、聡の容態からみて普通の車で運搬することは無理であり、運搬の途中に酸素吸入が是非とも必要である等の理由からどうしても救急車の手配が必要だと考え、自ら一一九番に電話をして手配を依頼したところ、たまたま電話口に出た相手が小武海医師の医院を知っていたこともあって、被告が了解していること及び小武海医師が責任をもつことを確認したうえ、いわば例外的に救急車を手配してくれることとなった。
同日午後二時五〇分ころ、救急車が被告医院に到着し、聡は救急車で転院することとなったが、このころまでにも、聡の呼吸の状態は一層悪化し、チアノーゼはより著明となり、意識もはっきりしない状態が続いていた。また、この転院の際に、被告の指示により看護婦が聡の病室に現れ、「先生を怒らせたわね。」と言って聡の点滴の針を抜こうとしたり、馬蹄金具を外そうとしたりしたため、小武海医師がそれに抗議してやめさせるということもあった。
以上の事実が認められ、<証拠>のうち右認定に反する部分は、採用することができず、ほかに右認定を覆すに足りる証拠はない。
四 請求原因6(聡の立川病院への転院後死亡に至るまでの臨床経過及び診察経過)について判断する。
<証拠>によると、次の事実が認められる。
1 聡は、原告ら及び小武海医師の同乗する救急車で訴外病院に向けて出発したが、車中では、すぐに同医師の指示により酸素吸入が開始された。酸素吸入を始めてからの聡は、呼吸数も減少し、苦しそうな様子も軽減し、チアノーゼも軽くなった。
2 同日三時二〇分ころ、救急車は立川病院に到着した。立川病院ではまず、中川医師が聡を診察し、意識状態は昏迷ないし傾眠、呼吸促迫(一分間に約五〇)、頻脈(一分間に約一五〇)、反射はすべて低下等の所見を認めた。それからその場にいた内科、整形外科、耳鼻科の各医師も一通り聡を診察して所見を述べ合ったが、中川医師の、重体であることは間違いないが、頭のほうよりむしろ胸のほうが原因ではないか、胸部外科の主任部長である訴外佐藤孝次医師(以下「佐藤医師」という。)に診てもらった方がいいだろう、との意見により、同医師に電話で連絡をとり、自宅から出て来てもらうことになった。そして当面の治療としては、マスクによる酸素吸入のほか、失禁に対し尿道に留置カテーテルを挿入し、更に脈拍、呼吸状態、血圧、及び心電図等のモニター装置をつけて継続的な観察がされることとなった。
聡が立川病院に到着しておよそ一時間後、学会に出掛けていたレントゲン技師が帰って来たので、立川病院の医師らがCTスキャン検査をしようとして一旦酸素マスクを外し、聡を地下の検査室に降ろしたところ、呼吸状態が急に悪化してチアノーゼが再び出現したが、急遽麻酔医が気管内挿管をして酸素吸入をし、危機を脱した。
佐藤医師は同日午後六時少し過ぎに立川病院に到着し、すぐに医局で聡のレントゲン写真を見て交通事故の態様、立川病院転院に至る経過等の説明を受け、病室で聡を診察した。
そのときの聡の状態は、骨折部の固定その他は終っており、酸素マスクで酸素吸入が行われていた。意識はないようであり、胸部の打診で、前胸部の短縮と軽い濁音が認められ、聴診では湿性ラ音が聴取された。また、脈拍は一分間に一五〇前後、呼吸数は一分間に五〇前後であった。更に胸部レントゲン写真では、心陰影の拡大、横隔膜の挙上、左第五、六、七肋骨の骨折のほか、特徴的所見として、肺野に斑状もしくは雲状の陰影が両側、殊に右側に顕著に認められた。そこで佐藤医師は、右の骨折の部位により事故の態様は背方から強い鈍性外力が加わったと推定されること、意識障害、頻脈、及び呼吸促迫といった臨床所見、並びに右レントゲン写真の所見等から、聡を肺挫傷と診断した。
そして佐藤医師は、酸素を与えてもチアノーゼは軽減したものの意識障害が改善しないことから、すぐに気管内挿管を行って陽圧呼吸を行うべきだと意見を述べ、同日午後六時三四分ころ、立川病院の医師小野某により気管内挿管が行われ、肺挫傷の治療に最も適当とされている、ピープ(PEEP)と呼ばれる吸気時だけでなく吸気終末時にも陽圧をかける器械による換気治療が開始された。
3 翌二二日午前三時一六分ころ、聡は血圧が低下して測定不能となり、自発呼吸が途絶え全身にチアノーゼが出現し、同一七分、心臓が一旦停止したため、当直医及び看護婦により心マッサージが開始され、血圧上昇剤等の投与の後、同日午前四時ころになって心拍が再開されたものの、同日午前七時四五分の佐藤医師による診察では、心拍、血圧は人工呼吸器によりよく保たれているものの、自発呼吸はなく深昏睡の状態で対光反射、随毛反射、そのほかの反射も見られない、いわゆる脳死の状態と判断された。
翌二三日に行われたレントゲン検査では、心陰影の拡大は消失してきており、肺内の水分量は減少していることが窺われる結果が得られたものの、脳死の状態は不変で、体温は四〇度前後で変わらず、次第に血圧維持により多量の昇圧剤の使用を必要とするようになり、同月二四日午後〇時五〇分には再び心臓が停止し、マッサージが行われたものの効果なく、同日午後一時七分、聡は死亡した。
以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
五 請求原因7(肺挫傷について)について判断する。
<証拠>によると、次の事実が認められる。
肺挫傷は脳膜損傷を伴わない肺間質の損傷で、胸部の強い圧迫あるいは打撲に際して発生することが多く、胸部外傷の一〇ないし一五パーセントを占める疾患である。
自覚症状としては、胸部の圧迫感、胸痛、呼吸困難、呟嗽、血痰、血性泡沫の喀出及び発熱などがあり、多くのものでは胸痛が基本症状となっている。他覚所見としては、胸壁挫傷によって胸郭運動が制限され、呼吸は浅くて速く、ときとして腹式呼吸のみられることがあり、損傷肺野の呼吸音減弱、喘鳴あるいは捻髪音などが現れる。肺挫傷が著明な場合には血圧の低下あるいはチアノーゼなどの循環所見の見られることもある。
そして肺挫傷の病理的変化は、受傷直後から進行性をもっており、受傷後数時間から遅くとも四八時間以内に発症するといわれている(なお、湿性ラ音は水腫様変化の初期に聴取されることが多い。)。
レントゲン検査所見としては、受傷肺野の限局性、散在性、あるいは融合性の線状、斑状もしくは雲状の陰影が認められる。
治療法としては、胸痛によって胸郭運動が制限されるものには受傷側胸壁において肋間神経ブロックを行い、換気運動を円滑にする治療が行われるが、重症例で酸素療法をしても呼吸数が一分間に三五回から四〇回以上のものでは、手術を要する合併損傷がなければ、気管内挿管を行った上、前記四記載のピープ(PEEP)治療を行い、同時に気道内分泌物がみられる場合にはこれを吸引することが最善とされる。
重症例では、呼吸・循環機能が著しく障害されて死亡に至るものもあるが、右のような治療によれば、早期に発見して早期に治療すればほとんどの症例が救命可能と考えられている。
以上のように認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
六 請求原因8(被告の不完全履行ないし過失―責任原因)のうち、不法行為法上の過失について判断する。
1 原告らは、聡が被告医院に入院している間において、被告は聡の肺挫傷ないし肺実質臓器の損傷の存在またはその可能性を全く認識していなかった、と主張するのに対し、被告はこれを争っているので、まずこの点につき検討する。
(一) 聡の入院中、被告が聡に行った検査及び治療の概要は前記二認定のとおりである。右を仔細に見れば、治療の内容に関しては、骨折及び脳浮腫に対する治療は行われているものの、前記五において認定した肺挫傷に対する効果的治療が何ら行われていないことはもちろん、呼吸状態の改善をめざした治療ないし処置も、弾性帯の除去といういわば消極的な措置がとられた以外には(非特異的な処置たる)酸素吸入すら行われていないことが認められる。また、検査については、被告医院で撮影されたレントゲン写真のうち、肺野ないし胸部の観察を主たる目的として撮られたものは二〇日午後二時過ぎの時点の甲第四号証の八の写真一枚しか存在しないことは被告がその本人尋問の結果中において自ら認めているところであり、その写真自体も、撮影条件(使用のレントゲン線量)からして骨折を診るには適しているものの、肺の細かい変化を観察するには極めて不適当なものにすぎないことが、鑑定証人佐藤孝次の鑑定証言及び証人野田栄次郎の証言から明らかである。
もっとも、右認定に対し、被告本人尋問(第一回)の結果中には、右写真について被告が「左の胸腔内に関しましては……影の、写真の黒さの程度が確かに違います。ですからその面から考えれば確かに左側には……胸膜腔内への……滲出液でもありますし……血液もございますけれども、いわゆる胸膜腔内への変化が出ていることは決して否定はいたしません。ただこれが先ほど申しましたように壁の損傷によって終わったものか、あるいは……肺実質臓器まで損傷が起こって胸腔内に漏れたものか、その判定はこれではできません。」と所見を述べている部分があるけれども、右供述は、その前後とのつながりからは、むしろ被告自身としては肺挫傷を思わせる所見はないという供述の一環としてされたものであると解さざるを得ない(供述自体の意味からは不合理であるが)から、右供述部分のみをとり上げ被告が肺ないし胸部実質臓器の損傷の可能性を疑っていたことの裏付けとすることはできない。
したがって、被告の行った検査及び治療からは、被告が肺挫傷ないし胸部実質臓器の損傷には何ら意を用いていなかったことが一応推認できるというべきである。
(二) 一方、被告は、「何故そのようなことがいえるのか。疑いをもつのは医者としては当然である。」といった極めて抽象的な反論を加えるばかりであって、被告が肺挫傷ないし胸部実質臓器の損傷を疑っていたと評価できるような具体的な根拠については何ら触れるところがない。のみならず、前記三認定のように三月二一日午後一時過ぎの小武海医師の転院申し出に対し激昂してそれ以後の聡の診察を完全に拒絶したばかりか、転院先の紹介やその手続についても全く協力しようとせず、転院に際しては看護婦が聡の点滴の針を抜こうとさえしたものであって(前認定の状況に照らし、このようなことを看護婦が被告の指示なしにすることは考えられない。)、これら被告の一連の行動に照らすと、被告が聡につき肺挫傷ないし胸部実質損傷その他の生命にかかわるような病変があるという可能性を全く考えていなかったものと推認することができる。そしてほかに右推認を覆すに足る証拠は認められない。
(三) そうすると、聡入院中の被告の認識としては、肺挫傷ないし胸部実質臓器損傷の疑いは全く抱いていなかったものと認めるのが相当である。
2 原告らは、請求原因8記載のとおり、聡の被告医院入院中の各時点における被告の過失の存在を主張する。そこで、前記二及び三で認定した聡の被告医院入院中の事実関係を前提として、右主張に沿って過失の有無を検討することとする。
(一) 入院から二〇日午後二時まで
原告らは、本件事故の態様や聡の症状等からして、被告は入院の時点において肺部実質臓器の損傷の可能性を疑うべきであったと主張する。そして、鑑定証人佐藤孝次の鑑定証言によれば、一般の医療水準としても少なくとも交通事故外傷を専門的に扱う外科医としては、胸部を強打していれば受傷から数時間経過後に肺挫傷が起こる可能性があることを予見しなければならないことが認められ、右1で認定したように被告が右可能性を全く考慮していなかったことは診療態度として適切さを欠くものであるという印象を免れない。
しかし、他方、肺挫傷の病理が進行性を有し、受傷後数時間から四八時間内に発症するものであることは前記五認定のとおりであり、しかも本件においては、二〇日午後二時までの時点では、聡に前記五認定のような肺挫傷による自覚症状及び他覚症状が現れていたという証拠はない(原告らは胸部圧迫痛の存在を肺挫傷による症状として主張するのであるが、聡の当時の病状からみて、胸部痛については肺挫傷によるものというより肋骨骨折による痛みであったものと認めるのが相当である。)。そうすると、右時点で被告が聡につき肺挫傷の可能性を疑い、一般の医療水準に沿った胸部の打聴診を始めとする外観的容態の診察や胸部レントゲン検査等を行っていたとしても、この段階で聡につき肺挫傷ないし胸部実質臓器の病変を診断することができ、以後より有効適切な処置を採り得たと認めることはできないというべきではある。
したがって、原告らの右時点における過失の主張は理由がない。
(二) 二〇日午後二時ころのレントゲン撮影の時点
(1) 原告らは、被告は二〇日午後二時ころに撮影されたレントゲン写真によって、被告自身が肺実質臓器の損傷の診断の重要な要素と考えている胸膜腔内への変化を認めたのであるから、より精度の高いレントゲン写真の撮影を始めとする諸検査を行うべきであった、と主張する。
この時点においても、交通事故外傷を専門的に扱う外科医である被告としては、肺挫傷の起こる可能性につき予見すべきであったことは右(一)と同様である。かつ、この時点においては、直後に行われる手術による浸襲で聡の全身状態が悪化することが予想されるから、前記1で認定したような問題のある前掲甲第四号証の八のような写真ではなく、より撮影条件の良い、肺部の微細な変化の観察に適したような写真を撮るべきであったということができ、被告が実施した前認定の検査及び観察は不十分なものであったというべき余地があることは否定できない。
(2) ところで、被告は右レントゲン撮影の撮影条件につき、被告本人尋問の結果中において、前記1に引用したような供述をしており、右は被告自身としては撮影条件が不適切であるとの主張に対する反論の趣旨であろうかと推測される。一方原告らは、被告の右供述を捉えて、被告は聡の肺実質臓器の損傷の可能性を疑ったのであるから、更に右損傷の有無を精査すべく、その目的に耐え得る精度のレントゲン検査等を行うべきであったと主張する。
仮に被告の右供述が措信し得るものであるとすれば、客観的にこの時点で聡に肺挫傷が発症していたことが強く疑われるばかりか、被告自身が肺実質臓器の損傷を診断する前提となる事実を認識したことになるのであるから、原告らの主張するとおり、被告としては更に、より精度の高いレントゲン検査を始めとする諸検査及び容態の外観的観察を更に密に行うべきであったということもできよう。しかし、前記1で認定したとおり、鑑定証人佐藤孝次の鑑定証言及び証人野田栄次郎の証言と被告本人尋問の全体に照らし、被告の右供述部分は到底措信できないものというべきであるから、右事実を根拠とする原告らの主張もまた、採用することができないものである。
そして、右レントゲン検査所見のほか、前記五において認定したような肺挫傷による症状ないし所見が二〇日午後二時の時点において出現していたことを認めるに足りる証拠はないから、仮に被告が肺部の観察を目的とした条件の良いレントゲン写真を撮影し、かつ外観的容態の観察を更に密にしていたとしても、肺挫傷ないし胸部実質臓器の病変を診断することができ、以後より有効適切な処置を採ることが可能であったと認めることはできない。
(3) したがって、原告らの右時点における過失の主張を肯認することは困難であるといわなければならない。
(三) 二〇日の手術終了から二一日午前九時過ぎの原告らの診察依頼まで
(1) 原告らは、右(一)及び(二)で主張した事情に加え、手術による聡の体力の消耗や弾性帯の装着により呼吸に悪影響を与えることが十分予想されたのであるから、被告は聡の容態観察を更に密にするか、付き添っていた原告らに対し、容態変化等があった場合には直ちに被告に申告するよう予め指示しておくべきであったと主張する。
(2) この時点においても被告が肺挫傷の起こる可能性につき予見すべきであったことは(一)及び(二)と同様である。また、腰椎麻酔下で行われたキルシュナー綱線挿入術が、その程度はともかく、聡の体力を消耗させたであろうことは明らかというべきである。加えて、鑑定証人佐藤孝次の鑑定証言によると、一般に弾性帯で胸部をぐるぐる巻きにした場合には深い吸気運動を阻害し呼吸機能に悪影響を与えるおそれがあることが認められる。そうすると、弾性帯の装着は慎重に行われなければならなかったものというべきであり、被告の右処置についてはその妥当性に疑問を呈する余地がある。
もっとも、本件における弾性帯の装着については、被告は、それを強く巻き過ぎると呼吸に悪影響を及ぼすことは医者としての常識であり、聡に対してもゆるめに巻いたものであると主張し、<証拠>中には右主張に沿う部分がある。しかし、右証拠中においても、一方では被告自ら二一日朝の最終診察の時点では聡の容態を診て右弾性帯による肋骨固定が少し強すぎたかと思った旨の供述部分があること、右の弾性帯による肋骨固定法が、絆創膏による固定法に比べ、呼吸管理の面から考えて問題のある方法であることは、<証拠>中において被告が自ら認めているところであるうえ、さきにみたように被告が当時聡の肺挫傷ないし胸部実質臓器の損傷の可能性を全く疑っていなかったと認められること、及びゆるく巻くことは弾性帯装着の本来の目的である肋骨骨折による疼痛の軽減とは相反するものであることからすると、被告の主張に沿う前掲証拠は措信し難いものというべきである。
(3) しかしながら、右弾性帯による呼吸の悪影響の程度については、本件全証拠によってもその詳細な認定は困難であるというほかなく、右弾性帯装着の点を過失と捉え本件における聡の死亡との因果関係を肯定できるかについてはなお疑問の余地があるといわなければならない。また、右の弾性帯装着の事実から、被告としては聡の容態観察を更に密にすべきであったとはいえようが、先にみたように、聡の容態(呼吸状態)は二〇日の夜から漸次悪化してゆき、二一日朝ころに至り重篤なものとなったと認めることができるところ、弁論の全趣旨によれば右時間帯には聡の病室にはナースコールのブザーが備え付けられていたことが窺えること、及び<証拠>によれば前日の二〇日の夜には聡の骨折部痛の訴えがあり、被告により鎮痛鎮静剤の注射が行われたことを考慮すると、原告らの申出がなくとも被告が聡の病室を訪れてその容態を観察すべきであったということは困難である。更に、付き添っていた原告らに対し、容態変化等があった場合には直ちに被告に申告するよう予め指示しておくべきであったとの原告らの主張については、右の事実のほか、<証拠>によれば原告らは翌朝までナースコールのブザーを鳴らしていない事実が認められることからすれば、そのような指示義務を被告に課すことができるか、また仮にそう指示したとすれば原告らが被告に聡の容態変化を申し出ていたであろうということができるかにつき、疑問の余地があるといわざるを得ない。
(4) したがって、原告らの右過失の主張を肯認することは困難であるといわなければならない。
(四) 二一日午前九時過ぎの原告らの診察依頼から小武海医師の転院申出まで
(1) 原告らは、<1>被告が二一日午前九時一五分ころに診察の依頼を受けたのに、午前一〇時一〇分ころまで聡の診察を遅延した、<2>実際の診察自体も不十分なものであった、<3>この診察によっても肺の損傷等の疑いを持たなかった、<4>更に午前一一時過ぎには看護婦から、傾眠傾向、喘鳴、尿失禁ありの報告を受けたにもかかわらず、診察も行わず、何ら有効な手段をとらなかった、<5>正午ころ聡の容態が一層悪化し、原告らが二回にわたり診察を依頼したのに、被告は聡を一回も診察しなかった、として、右各事実を被告の過失を根拠付けるものと主張する。
これに対し、被告は、事実関係及び過失の評価の双方につき争うのであるが、事実関係については、既に前記二2において認定したとおりである。したがって、右<1>に関しては、過失評価の前提となる事実関係自体をにわかに認めることができないというべきであるから、以下においてはその余の主張につき判断する。
(2) 被告が二一日午前九時三〇分ころないし午前一〇時少し前ころに行った診察の結果、聡に呼吸困難、呼吸促迫の症状が出現していることを認めながら、原告らの申出に従って前日に自らが装着させた弾性帯を外しただけで、胸部の打聴診はもちろん、血圧や脈拍の測定などのいわゆるバイタルサインのチェックやレントゲンによる再検査等も行わなかったことは前記二2において認定したとおりである。そして右呼吸困難、呼吸促迫の症状については、従前被告がその存在を認めていなかったものであることが明らかであるところ、このようにそれまでは見られなかった呼吸障害の症状が治療を継続している途中に出現したという事実から、被告としては、従前の自己の診断と治療の方針につき、何らかの見落しがあったのではないか、或いは予想していなかった病態が出現しているのではないかと疑うべきであったことは当然であり、前記1で認定したように被告が肺挫傷ないし胸部実質臓器の損傷の可能性を全く疑わず弾性帯を外す以上の有効な処置を全くとらなかったという事実は、医師として期待される注意義務を尽くさなかったものというべきである。そしてこの時点においては、呼吸障害に伴う症状出現の事実をいたずらに軽視せず、正当に受け止めていたならば、通常の医師であれば当然に、体温や脈拍の測定等のバイタルサインのチェックを行った上、胸部打聴診や肺野の変化の観察に適切なレントゲン線量によるレントゲン再検査を試みたはずであり、そうすれば前掲甲第一〇号証及び原告敬本人尋問の結果から推認される当時の聡の臨床症状、肺挫傷の一般病理、及びその後小武海医師や立川病院の医師によって観察された症状からみて、この時点で肺に重大な病的変化が出現していることを診断し得たものと推認することができる(この点につき被告は争っているが、そもそも主張の前提となる聡に対する被告の診察が極めて杜撰なものというべきであって、到底採用することができない。肺挫傷を確定診断し得たかについてはともかく、少なくとも右のように肺に重大な変化が出現していることを診断し得たことは明らかというべきである。)。そしてこのような病的変化に対し、直ちに応急処置として聡に対する酸素吸入を開始した上、仮に右処置によって十分に回復しないとすれば、右症状の原因についての精査が可能な設備・診察体制を有し、或いは器械による換気治療の設備を有する病院への転院措置を採ることが十分に期待できたというべきであるから、被告の現実の診療態度には不法行為法上の過失が存したということができる。
もっとも、被告は、右時点の診療につき、弾性帯を除去したところ、直ちに呼吸困難は回復し、呼吸促迫も鎮静化傾向が見られたので、経過を観察することとし、その後経過をみて再診、再検査を、と考えていたものであるとして、過失の存在を争っている。
しかしながら、まず第一に、右の呼吸困難、呼吸促迫の各症状が軽減したという主張をにわかに認めることはできない。すなわち、この点に関しては、右診察の際に、被告と聡との前記二2(二)認定のような問答があったことが認められるけれども、原告敬本人尋問の結果及び既に認定した聡の病状の進行の全体に照らせば、右問答は単に肺挫傷による呼吸困難に加えて弾性帯による圧迫の影響があったところ後者がなくなったことにより幾分楽になったという以上のものではないと認めるのが相当である。また弾性帯による圧迫といっても、それは治療法の一つとして用いられているものであるから、ほかに原因がないのに右のような症状を呈すると被告が即断したとすれば、それ自体明らかに軽率なものというべきである。加えて、そもそもその後被告が聡を全く診療していないことは当事者間に争いがないところであり、経過を観察することにしたという被告の主張は被告の右のような現実の診療態度に照らしても到底採用することができないというべきである。
(3) 同日午前一一時ころの看護婦からの報告に対する被告の対応について
同日午前一一時ころA被告が看護婦から、聡の容態につき「傾眠傾向あり、喘鳴も出てきた、尿失禁あり。」との報告を受けたこと、それにもかかわらず被告が聡を診察しなかったことは、前記二2(三)で認定したとおりである。
右(2)に述べたとおり、被告が本来医師として期待される注意義務を尽くしていたとするならば、午前一一時の時点までに既に被告は少なくとも聡の胸部に何らかの重大な病変が存在することを気づき得たというべきであるが、それに加え、右のような看護婦からの報告があったことにより、被告にとっては更に聡の状態の重篤性を認識することが容易なものとなったであろうことは明らかである。したがって、被告は当然、直ちに聡を診察し、その結果得られた情報により聡の状態を正しく把握し、聡のため必要な措置をとるべきであったのであり、右報告を受けたにもかかわらず、被告がそれでも聡の再診察を行おうとせず、その後聡の転院に至るまでの約四時間にわたり、(また、小武海医師の転院申出まででも約二時間三〇分にわたって)聡を診察することなく、ひいて聡のため有効な処置を何らとらなかった事実は、重大な過失と評価されるものというべきである。
被告本人尋問の結果中には、看護婦から右のような報告を受けて、頭部にもかなり影響が出ているなと思ったが、他患の緊急手術があったため、経過をみて午後から診察及び検査を開始し、それから対策を練ろうと考えていた、と述べる部分があるが、右の緊急手術が終わった後も被告が聡を診察した事実は存在せず、しかも前記三2において認定したように、被告が小武海医師の転院申出に対し、聡の容態を重体ではないと断言し、再診しようとしなかったばかりか、以後の診療を拒絶していることからすれば、当時果たして被告がそのように聡の診療を行う必要があると考えていたかははなはだ疑問であるといわざるを得ないし、仮に被告がそのとおり考えていたとしても、そのような姿勢自体当時の聡の状態に照らし悠長に過ぎるというべきであって、医師として期待される注意義務を尽くしたものと評価することはできない。
また、被告は、看護婦から報告を受けた右各症状の意義につき、傾眠傾向及び尿失禁は脳症状であり、喘鳴のみが肺挫傷に限定されない胸部症状であるにすぎないと反論しているが、後記七2(一)(1)で述べるとおり、肺挫傷による低酸素血症が持続したことにより、脳浮腫が発症、進行してこれらの症状が出現してくることは十分に考え得るところであり、本件についてもそのような可能性を否定することはできないから、被告が聡に対し従前から医師として期待される程度の容態観察を行っていたとするならば、容易に右の可能性を推測することができたというべきである。したがって、右反論は採用することができない。また、右に述べたとおり、被告の右報告に対する対処における過失は、そもそも病名の診断の懈怠という以前の診断の前提となるべき診察自体の懈怠なのであるから、その点からも右主張は失当というほかない。
(4) 同日正午ころの原告らの診療申出について
原告らが同日正午ころ、看護婦に対し、被告の診察を依頼した事実は前記二2(三)で認定したとおりである。
これに対し、被告はその本人尋問において、看護婦を通じて原告らの診察依頼を受けた事実はないと述べている。しかしながら、右当日、被告医院で勤務していた看護婦が一名であったことは、被告本人尋問の結果からも明らかであるところ、その看護婦が午前一一時の時点において、聡の容態の変化を被告に報告したことは右(3)で認定したとおりであるから、更にその後原告らが聡の容態の悪化を申し出、被告の診察を依頼したような場合には、当該看護婦として、特段のことがない限り、被告にその事実を伝えるであろうことが推認できるというべきであり、被告の本人尋問中の右事実に関する供述部分がいかにも曖昧なものであることに照らしても、被告の右供述部分を措信することはできず、被告は同看護婦から原告らの診察依頼につき伝言を受けたことが推認できるというべきである。
そしてこの時点においては、先に述べた看護婦からの報告に加え、付き添っていた原告らからの申出も受けたのであるから、被告が即座に聡の容態を診察すべき義務は一層顕著になっていたというべきである。しかるに、なお被告は聡を診察しようとしなかったのであって、このような被告の態度が不法行為法上の重大な過失に該当することは明白である。
(5) 小武海医師の転院申出から転院まで
小武海医師の転院申出から聡の転院に至るまでの事実関係については、前記三に認定したとおりである。
そこで右事実関係を前提として検討するに、前記二2(二)に認定した被告の最終診察の時間を前提とすれば、右転院申出のあったのは、既にそれから三時間三〇分以上が経過した時点であったことが明らかである。
したがって、仮に右最終診療時の観察が主観的には十分であると思っていたとしても(客観的にはそのように認定できないことは既に述べたとおりであるが)、その後において聡の容態が変化する可能性があることは、医師としての常識である(被告自ら本訴において自己の責任を否定する意図で主張しているところである。)ばかりか、一般通常人の常識ですらあるということができる。しかもその前の午前一一時ころに被告が「喘鳴も出てきた。尿失禁あり。」という看護婦の報告を受けていたことは既に認定したとおりである。そうだとすれば、このような場合、ほかの医師から「状態が良くないようだ。」との指摘を受けたならば、即座に患者のもとに赴き、診療をすべきであることは、医師として当然の基本的な義務であるというべきである。しかるに、被告はもう一度自ら聡の容態を診ることすらせず、依然として自己の容態観察の不十分さに基づくところの楽観的見通しに全く疑いを抱かなかったばかりか、却って小武海医師を前記認定のような非礼極まりない言葉で罵っただけであり、右のような被告の対応が聡の病態把握を全く行わなかったという意味で重大な過失と評価されるべきことは多言を要しないところである。
以上に対し、被告は事実関係につき、前記三2(二)引用部分のように主張し、「医者なら医者の立場がわかるはず」として小武海医師の行動を非難し、自己の行為の正当性を主張するのであるが、右事実関係についての主張が採用できないことは前記三2において説示したとおりである。また、仮に被告の右主張によったとしても、小武海医師が現在の聡の状態が悪いと申し出ていることは変わらないうえ、右主張によれば、同医師の申出は、将来良くなってから聡を転院させたいというものであったというのであるから、聡に対する当面の治療はなお被告に依頼していることになるのであり、そうすると、小武海医師から転院の申出があったからといって被告が患者を診察することができなくなると解すべき根拠もなく、右申出によって被告の診療義務が免除されることになるとは到底解されない。したがって、小武海医師からの転院の申出の事実は、被告の診療拒否もやむを得ないとして被告の過失を否定する事情となるものではなく、また、被告の診療拒否の不当性ないし過失の重大性の認定についても何ら影響を与えるものでないことが明らかであって、いずれにせよ被告の主張は失当である。
七1 以上の認定によれば、被告には、聡の状態・経過の観察を怠り、その結果、聡において被告医院への入院以来徐々に進行し、二一日朝までには呼吸障害の症状を呈するに至った肺挫傷に対する的確な診断が下せないまま、適切な治療を施す機会を失い、漫然とこれを進行させ、早期治療の時期を逸したうえ聡の状態を著しく悪化させた不法行為法上の過失があるというべきである。
2 もっとも、被告は、自己の過失の存否について争うほか、自己の治療と聡の死亡との因果関係についても争い、聡の死亡原因は肺挫傷ではないと主張しているので、以下右主張について判断する。
(一) 被告は、因果関係がないとする主張の根拠の第一として、肺挫傷が三月二三日の立川病院でのレントゲン検査では軽快しているとの事実を挙げ、聡の死因については、本件訴訟の当初は脳挫傷であると主張していたが、その後は、聡の被った多重外傷の複雑な病態生理に加え、小武海医師の無謀な被告との問答による転院遅延、立川病院での不十分な治療が聡を死に至らしめたものであり、死因は医学的には確定できないが、転院後、頭部の原因が悪化したことによると考えられる、と主張している(被告の主張3(一))。
(1) しかしながら、まず、肺挫傷が三月二三日の立川病院でのレントゲン検査では軽快していることは<証拠>によって認めることができるけれども、同鑑定証言によれば、肺挫傷により肺のガス交換機能の低下した状態が継続し、そのため低酸素血症の状態が続いて脳浮腫が起き、この脳浮腫が更に悪循環を起こして低酸素血症を助長して、脳の虚血によりその組織に不可逆的な変化を起こし、ひいては脳死の状態を生じさせることは、一般的にも十分に考えられる事態であること、また、一旦脳死の状態に至ればさほど長い経過をたどらなくても心停止に至るのが普通であることが認められ、そのように脳の組織が不可逆的な変化を起こすとすれば、器械による換気治療等により肺挫傷自体は軽快したとしても脳の状態が改善しないことは何ら異とするに足りないのであって、右事実をもって肺挫傷と聡の死亡との因果関係を否定することはできない。
また、受傷後、被告医院に入院した当初は聡の意識は清明であったことは当事者間に争いがないし、更に、少なくとも受傷後二四時間が経過した二〇日午後八時ころの時点までは、被告の主張によっても、また原告らの主張によっても、聡が意識障害を呈していたとみられるような症状の存在は何ら現れていないのである。そして鑑定証人佐藤孝次は、右のように受傷後二四時間以上意識が清明であったとすれば、仮に脳挫傷があったとしてもさほど高度のものであったとは思われないし、脳の血腫だとすれば後から症状が悪化することはしばしばみられるものの、この場合にはむしろ脈拍は遅くなり、瞳孔不同等の症状がほとんどの場合に出現するのであるが、聡についてはこれらの所見はみられておらず、片麻痺の症状もないことからすると、初期の脳の損傷は軽かったのではないか、と述べており、右鑑定証言によれば、聡の死亡原因につき肺挫傷の関与を否定し脳損傷に伴う脳の病変によって説明しようとする被告の主張は採用することが困難であるといわなければならない。
加えて被告は、医学的には未解明であるところの多重外傷の病理の関与、といった主張もしているけれども、そもそも被告が本件診療当時、立川病院の医師も小武海医師も聡の容態を診て即座に疑った胸部損傷についてすら、三日間にわたる入院加療を行いながら全く疑いもしなかったことは既に認定したとおりであるうえ、右主張自体も、立川病院で指摘されていない聡の病状や所見の存在を指摘しているわけではないから、被告が当時聡につき臓器の多重外傷の可能性を考慮していたと認めることはできないし、鑑定証人佐藤孝次の鑑定証言など本件の全証拠関係を検討しても、客観的には(肺挫傷自体とは別個に発生した)脳の病変の存在が全く考えられないわけではないものの、仮にそれがあったとしても肺挫傷の進行が聡の死亡の大きな要因となったことに変わりはないものと推認され、したがって被告の右主張は採用することができない。
(2) なお、被告は、小武海医師の申出が無謀であり、転院遅延の原因であった、或いは、原告らが転院を強行したことが時間のロスになった、とも主張している。
しかしながら、被告が聡につき、肺挫傷ないし胸部実質臓器の損傷を始めとする重大な疾患の存在について、何ら疑っていなかったことは既に認定したとおりである。のみならず、二一日朝の報告による診療が極めて不十分なものであったこと、その後同日午前一一時過ぎには看護婦から聡の容態に関し重要な報告を受け、かつ同日正午ころには原告らから二度にわたり診察依頼を受けていながら、被告が聡に対する診察を全くしなかったことは既に認定したとおりであるから、仮に小武海医師の申出がなかったなら被告が聡に対し有効適切な処置をとったであろう、と推認することは到底できないというべきである。
加えて、二〇日の小武海医師との問答の際、被告自身が、聡の容態は重症ではなく転院する必要は全くない、と断言したこと、原告敬が転院のために救急車を要請するよう被告に依頼した際、被告がそんな必要はない、絶対に呼ばない、と右依頼を拒絶したことは、前記三2及び3で認定したとおりであり、右事実関係からすれば、被告が当時、聡を被告医院で治療し得ると考え、転院の必要性を全く考慮していなかったことは明らかであるから、仮に右申出がなければ被告が聡をより早期に転院させたであろう、と推認することは到底できないというべきである。
そしてこのような被告の診療に接した原告らが、転院の希望を自ら申し出ようと考えるのは、子の身を案じる親の立場として当然というべきであって、右希望を被告に伝えたことが転院遅延の原因になったという被告の主張は、にわかに首肯し難いものといわなければならない(その申出が小武海医師によってされた点も、それが原告らの意思に基づいて行われている以上、何ら右評価を左右するものではない。)。
そして何よりも、小武海医師の転院申出に対する被告の態度こそが、本件における被告の種々の過失の中でも殊に責められるべき重大な過失と評価されるべきものであることは、前記六2(五)で認定、判断したとおりであって、右申出の際の事実関係において無謀と評されるべきものは被告のかかる対応にこそ認められ、時間のロスないし転院遅延の原因は従前の被告の杜撰極まりない診療態度と、ほかの医師から病状の重大性を指摘されても再度診察することもなく、診療拒絶を宣言した上、転院にすら協力しようとしなかった被告の一連の不作為にこそ認められるといわなければならない。
したがって、被告の右主張は採用することができない。
(3) 以上のとおり、被告の前示主張はいずれも採用することができず、被告医院入院中の聡の肺挫傷の悪化が、その死亡原因の重大な要素となったことは明らかであるというべきである。
(二) 被告は、更に、立川病院転院時の聡の病状は十分回復可能な状況にあったから、立川病院において適切な治療を行えば聡は死亡に至らなかったものであるとして、死亡の直接の原因、責任は立川病院の治療行為にあり、被告の治療は聡の死亡と因果関係はないと主張する(被告の主張3(二))。
右主張の趣旨は必ずしも明確であるとはいい難いが、単に原告の主張する肺挫傷の死因関与性を否定する事情に止まらず、仮にそれが認められたとしてもなお、被告の診療行為と聡の死亡との因果関係を争う趣旨をも含むものと解される。
しかしながら、前記六認定のように、被告医院における診療の不手際により聡の肺挫傷が著しく悪化したことが認められ、かつ右七2(一)認定のように右事実が聡の死亡原因の重大な要素となったことが認められる以上、仮に聡が立川病院に入院した時点において同病院が考え得る限り最も迅速にかつ最善の治療をしていたとすれば、聡の救命可能性が絶無ではなかったとしても、それが直ちに被告の前記認定の過失と聡の死亡との因果関係を遮断することになるものでないことはいうまでもない。また、仮に立川病院の診療に若干の過失が認められ、それが被告の前記認定の過失と競合して聡の死亡という結果を惹起したものと認められるとしても、それだけでは被告と立川病院とが共同不法行為責任を問われることがあるにすぎず、本件のように被告が単独の不法行為責任を追及された場合に、右事実が直ちに被告の免責事由となるものではない。
そうだとすれば、被告の右の主張は、肺挫傷の死因関与性を否定する事情としての意義のほかには、仮にそれが認められたとしても、その後の聡に対する立川病院での診療において、被告の過失による肺挫傷の進行と聡の死亡との間の相当因果関係が遮断されたと評価されるほどの重大な不手際が認められる旨の主張として、初めて意味を持つものと解すべきである。
そこで、このような観点から被告の挙げる立川病院の治療行為について検討する。
(1) 被告の主張3(二)(1)について
立川病院への入院当初の時点ではレントゲン・CT検査が検査技師の学会への出張のために行われなかったことは、当事者間に争いがない。
しかし、立川病院においては、聡に対し、入院当初から酸素吸入が行われ、胸部外科の専門医である佐藤医師の到着後、肺挫傷という確定診断がされてピープ(PEEP)治療が行われたこと、一方、右佐藤医師の到着までにはレントゲン検査技師は立川病院に戻って検査を行っており、同医師の到着時には既にレントゲン写真が出来上がっていたことは、前記四2において認定したとおりであるから、仮に右検査の遅延が認められるとしても、それが立川病院の治療の実際には何ら影響を及ぼしていないことは明らかというべきである。
(2) 同(2)について
被告は、CT室への移送中にチアノーゼが出現したことを問題にするが、その趣旨は、立川病院において酸素吸入を中断して聡の病態を悪化させたことを非難するものと解される。
確かにこの時のチアノーゼの出現は、CT検査のために酸素吸入を一旦中断したことに起因するものと考えられる。しかし、さきに認定した事実関係によれば、立川病院は、聡を当初から呼吸障害・意識障害の症状を呈した状態で受け入れたものであり、しかも、被告からは引き継ぎを全く受けられず、そのため、聡の従前の病態に関する情報を得ることができなかったのであるから、同病院が、これに対処する緊急の治療方針としてまず呼吸障害及び意識障害への対症的療法である酸素吸入を開始したうえ、その原因を探るためにレントゲン検査・CT検査を行ったことは、当然に行うべきことを実施したものとして、適切な措置であったというべきである。そして右検査のため酸素療法を中断することになっても、それは、右検査の性質及び手技からする制約上避けられない事態であったというほかなく、その間、右中断による悪影響があったとしても、それは立川病院の責に帰すべきものではなく、既に認定したような被告の治療拒絶及び転院に際しての引き継ぎ連絡の拒絶に由来するものというべきであって、被告の過失と聡の死亡との間の因果関係を遮断するものということはできない。
(3) 同(3)について
被告は、聡が父親の呼びかけに対し「うんうん」とうなずいたのだから、脳の不可逆的変化が完成していたとはいえないと主張する。そして、前掲甲第一〇号証中には、被告の右主張に沿うかのような部分が存する。
しかし、右証拠には、続けて「どこまで分かったのか分からない感じ」だった、と述べられているのであるから、右証拠によっても聡の右のような反応が普通の呼びかけに対する応答のようにしっかりしたものではなかったことは明らかである。また、意識障害がある程度進行していても外界からの呼びかけに反応する程度のことがあり得ることは、鑑定証人佐藤孝次の鑑定証言など本件に現れている証拠関係から明らかであるから、右事実を殊更重大視して聡の容態が重体であったことを否定するのは相当でない。
更に、仮にこの時点で不可逆的変化が完成していたとはいえないとしても、それが直ちに被告の免責事由になるものではないことはさきに((二)冒頭)述べたとおりであるから、右のような事実があったからといって、それが被告の過失と聡の死亡との間の因果関係を遮断するに足りるものでないことは明らかであるといわなければならない。
(4) 同(4)について
動脈血ガス分析機械が故障していたため、聡に対するピープ治療につき、それが本来発揮し得たであろう程の治療効果を挙げられなかった可能性があることは否定し難い。
しかし、器械の故障が直ちに立川病院の不手際につながるといえるものかどうかについては疑問の余地があるうえ、動脈血の酸素分圧はチアノーゼの程度からもある程度窺うことができることは鑑定証人佐藤孝次の鑑定証言により認めることができるのである(そしてその後、右動脈血ガス分析機械に頼らないで、聡の肺挫傷自体は軽快していることは前記2(一)(1)で認定したとおりである。)。しかも本件においては、それまで良好であった聡の呼吸状態が右機械の故障によって悪化したというわけではなく、従前被告が有効な治療を全くしていなかったために生じていたところの聡の重篤な呼吸障害を、可及的速やかに回復させることができなかった可能性があるというに止まるのであるから、被告の右のような治療懈怠という重大な過失を免責するような因果関係の遮断が認められないことは明らかというべきである。
(5) 同(5)について
被告は、立川病院の行った心襄穿刺が聡の心停止の原因として考慮されるべきであると主張し、証人野田栄次郎の証言によると、心襄穿刺は一つ誤ると心臓を突き刺す危険性があるので慎重に行われるべきであるとされていることが認められる。しかし、本件においては心臓を突き刺したわけではないし、心臓自身への負担の可能性といっても、その具体的な主張立証はない。また、抽象的にはそのようなものが考えられるとしても、心襄穿刺が正当な治療法として認知されていることからすれば、本件における肺挫傷に起因する低酸素血症による心臓への影響に比すれば大きなものとは認め難いから、到底相当因果関係を遮断するものとはいえない。
(6) 同(6)について
水分バランスの点につき、被告は午前二時の時点で二一〇〇ミリリットルの水分超過となっていることを問題にしているけれども、鑑定証人佐藤孝次の鑑定証言によれば、当時聡は尿の排泄には問題がなかったこと及びこれによって肺の所見が悪化したこともないことが認めれられるから、一時点において多少水分超過の状態になっていたからといって、それが直ちに聡の死亡原因となったとは考えられない。したがって、右事実は相当因果関係を遮断するものとはいえない。
(7) 同(7)について
被告は様々な主張をしているが、いずれも具体的主張立証を欠き、かつ自己の診療態度に論及しない独自の見解というべきものであって、到底採用することができない。すなわち、血圧測定の不十分さや病態変化への対応の遅滞については、何よりもまず被告自身について指摘されなければならない事実であることは既に述べたところから明らかであるし、心停止後の対応の不可解さというのは、立川病院の医師らが聡の死因につき率直に原告らに説明した事実を被告独自の見解でもって不可解と決めつけているにすぎない。また、薬剤の副作用による血圧低下との主張に至っては<証拠>に照らすと、立川病院において聡の死亡という最悪の結果を避けるために使用した多くの薬剤のうちから、「ときに(或いはまれに)血圧の低下(或いは上昇)が現れることがある。」と学術書等に指摘されているものを殊更大きく取り上げたものにすぎないことが明らかであり、本件における事実関係、すなわち当時の聡の臨床経過を全く無視した主張というべきものであって、考慮の余地のないものである。
(8) 以上のとおりであって、被告の主張はいずれも理由がない。
のみならず、立川病院においては、前記四において認定したとおり、聡の入院当初午後三時二〇分ころから意識状態、呼吸、脈拍などのバイタルサインのチェックはもちろん全身にわたる一通りの診察をして、聡の容態が楽観を許さないものであること、その原因としては胸部疾患が疑われることを把握し、呼吸障害に対し直ちに酸素吸入を行った上、モニターによってその容態を絶えず監視し、その日の午後六時三四分ころまでには、肺挫傷との確定診断を下したうえ、最も効果的とされるピープ治療を開始しているのであって、右は、聡の肺挫傷ないし呼吸障害に対する有効な積極的治療を全く行っていなかった被告の診療に比すれば、全体としてその診察の密度、診断の正確性、治療方針の適切性など、いずれをとっても遥かに勝っているものと評価することができるというべきである(かかる評価に際して被告医院と立川病院との規模の大小を考慮に入れることは適当とは思われないが、仮にそれを最大限考慮したとしても、被告の聡に対する診療が右諸点において極めて問題の多いものであったことは明らかというべきである。)。
以上みたところによれば、立川病院の行った治療については、被告の過失と聡の死亡との間の相当因果関係を遮断すると評価されるような重大な不手際を認めることはできない。したがって、右因果関係を否定する被告の主張は理由がない。
3 以上のとおりであるから、被告は民法七〇九条によって、聡の死亡によって生じた損害を賠償する義務があるというべきである。
八 請求原因10(損害)及び11(損害の填補)について判断する。
1 聡の逸失利益についてみるに、<証拠>によると、聡は、昭和三七年二月一三日生れで、死亡当時二〇歳の大学二年生であり、生前は健康な男子であったことを認めることができ、この事実によると、死亡に至らなければ、昭和五九年三月に二二歳で大学を卒業し、その後六七歳まで四五年間は就労することができたものと推認され、この間、同人は、少なくとも当裁判所に顕著な昭和五七年賃金センサス第一巻第一表の産業計、企業規模計、学歴計、男子労働者全年齢の年間平均給与額三七九万五二〇〇円と同程度の収入を取得できたものと認められ、その生活費は収入の五割と考えられるから、同人の死亡による逸失利益を年別のホフマン方式により年五分の中間利息を控除して計算すると、次のとおり四一六九万一七九〇円(円位未満切捨て。以下同じ。)となる。
(算定式)
3,795,200×(1-0.5)×(23.8322-1.8614)=41,691,790
2 聡の慰謝料についてみるに、聡の死亡時の年齢、前記認定の被告の過失の態様その他本件に現れた一切の事情を斟酌すると、聡の死亡による慰謝料としては、一五〇〇万円が相当である。
3 原告らは、前記一認定のとおり聡の父母であるから、聡の死亡により同人の権利義務を各二分の一の相続分をもって承継したものと認めることができる。
そうすると、原告らは、前記1及び2で認定した聡の損害賠償請求権の各二分の一を相続によって取得したものというべきである。
4 原告ら固有の慰謝料について判断するに、本件に現れた全証拠に、前記認定の聡の慰謝料額をも併せ考慮すると、原告らの慰謝料はそれぞれ五〇〇万円とするのが相当である。
5 損害の填補
原告らが請求原因2記載の聡の交通事故につき自動車損害賠償責任保険から聡死亡による損害の填補としてそれぞれ七〇四万三五七〇円の支払を受けたことは、原告らの自認するところである。
したがって、原告らには、前記1ないし4で認定した合計各三三三四万五八九五円から右填補分各七〇四万三五七〇円を差引いた各二六三〇万二三二五円の損害がなお残ることになる。
6 弁護士費用についてみるに、原告らが本件訴訟の遂行を原告らの訴訟代理人に委任したことは本件記録上明らかであるところ、本件事案の内容、審理経過、請求認容額等諸般の事情に照らすと、右弁護士費用については、原告ら各自につき三〇〇万円をもって本件死亡事故と相当因果関係ある損害と認めるのが相当である。
九 以上の事実によれば、原告らの本訴請求は、各自二九三〇万二三二五円及び原告らの申立のとおり弁護士費用を除き内金二六三〇万二三二五円に対する聡死亡の日である昭和五七年三月二四日から支払済みまで民法所定の年五分による遅延損害金を支払うことを求める限度で理由があるから、これを認容することとし、その余は理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条一項本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 新村正人 裁判官 佐々木茂美 裁判官 上田 哲)